僕は小学校の頃から、癒しキャラと言われてきました。
本心では、かっこいいと思われたかったのですが、やはり生まれ持った宿命でしょうか。
どの時点の学校や職場でも、そのような扱いになってしまいます。
今日は、そうなった敬意を簡単に説明します。
癒しは悪じゃない
癒しと言うのはプラスな言葉だと思っています。
しかし残念ながらそれは自分には向いていません。
向くとは、相手からの好意の感情と言う意味です。
要はそれを多くもらえる人がモテる人なのでしょうね。
残念ながら自分はそういった人種ではないです。
無理してそうしようと思うと体を壊したりするのは過去からみてわかるのでもうしないと最近も誓いました。
しかし、それでも癒しは悪ではない。
癒しとは、相手に与える状態の一例だと思っています。
モテと癒しは対極にある
- モテる→好意が自分に向かう
- 癒し→好意が相手に向かう
多分、そのような状態だと思っています。
僕は昔から人の良い部分を見つけるのが得意?で、悪く言うとすぐに好きになってしまう性格みたいなんです。

しかしその癒しの状態を捨ててしまったらどうなるのか?

そうです。
孤独になります。
それが高校生の頃はピークだったと思っています。
しかし心のどこかでそれが生きていて、なんとかしたいと思っている感じなのです。
多分トラウマなんだと思うあの頃が。
誰からも必要とされていない恐怖感とか惨めさとか、ちょっと今と似ているかも。
だからジムにはやく行って筋トレしたい!って本当に思います。
筋トレがなくなったら本当に人生つまんなくなると思う。
ギブアンドギブの精神が癒しを作る
それでも僕は与えたいと思う。
結果的に自分にとって何か得があるわけではない。
相手は得をする、と言うかありがとうと言ってれる状態。
いつもは「あーよかったねー」と思うのですが、何か思い入れがある相手だと胸が痛くなる時があります。
それは僕が未熟だからなのですが。
だからこそ筋トレとか勉強って、矢印が自分から自分に向かい過ぎる状態を防ぐ良い方法だと思っています。
自分を大事にして相手に癒しを与える人間になりたいなと思いました。
癒しを与える方法と注意
- ギブアンドギブの精神
- 相手の気持ちになって相手の話を聞いて理解しようと頑張る
- 正しい相手を好きになったら自分しか見えないので癒しを与えられなくなる
小学校の時に人間関係に満足していた頃の僕なら、今どうすればいいのか?しっかり考えます。
純粋な考えの中にきっと答えは眠っている気がします。